ともに家で生活するということ
長くなりますが、自宅で介護をしている多くの方に読んでいただければと思います。
私は、グループホーム(認知症対応型共同生活介護)の管理者として、多くのご家族様と関わり、悩みを聞き、認知症になってしまった親への思いに触れてきました。
ご家族様と話している時に強く感じたのは、いまだに『親の面倒を見るのは子供の役目』『家で見られるうちは家で頑張る』『介護施設に親を入れるのは最終手段』という考え方が、まだまだ根強いということです。
そしてこの考えは、介護をする側だけではなく、介護を受ける側にとっても『当然だ』ととらえている様子があります。
その結果、要介護状態となった親を家で介護することが当たり前、という流れがいまだに残っているのだと思います。
もちろん背景には『地域性』『金銭的』『親族との関係』といった課題もあるでしょう。
ですが『家族介護を頑張り始めたタイミングは、次の段階を考え始めるタイミングでもある』といえます。
頑張り始めるということは、徐々に無理が出てき始めている、誰かが我慢し始めているということでもあると、今までの経験から感じています。
頑張り過ぎてしまう家族
自分たちを今まで育ててくれた大切な親だから自分たちが見てあげたい、と思う気持ちは偽善でも美徳でもなく、当然な思いです。
この気持ちのスタートは、間違いなく『優しさ』や『思いやり』、『感謝』です。
ですが、その思いが強くなり過ぎるあまり、頑張り過ぎてしまう家族が多いように感じます。
つまり『自分たちの生活に影響が出始めても『まだ見れる』と、無理をし始めてしまう』ということです。この思いの強さはやがて、介護者である自分たちを縛り始め、生活に何かしらの影響を与え始め、いつしか『優しさ』を見えなくしてしまいます。
特に、認知症の方を自宅で支える介護者(配偶者や子供、子供の配偶者)の責任感と忍耐力は凄まじいものがあります。
それ故に、縄が深く食い込んでいくことに中々気づけません。そして気づかぬうちに、介護を始めた頃に心を満たしていた『優しさ』という感情に蓋をしてしまいます。
夜間。
排泄に向かうため、認知症の方が起き出します。
我が家なのに、トイレの場所が分かりません。
トイレにたどり着いても排泄の仕方が分かりません。ズボンや床が濡れてしまいます。
排泄を済ませてもどう始末していいのか分かりません。触ったら手が汚れたので、ひとまず壁にこすり付けて手を拭きます。
入る時にはカギを掛けたのに、カギの開け方が分かりません。開けてと大きな声で叫んでみます。
トイレを出たら、部屋に戻れません。目の前は暗く、歩き出すのが憚られます。
だから、トイレに起きるたびに、介護者も起きなければなりません。
仕事中。
夫婦は共働きで、子供は学校です。
デイサービスに送り出すために着替えたのに、排泄を失敗して濡らしてしまいました。
やっと着替え終わったのに、なぜか自分でパジャマに着替えてしまいました。
また着替えさせなければいけません。出勤前の忙しい時間がさらににバタバタします、
デイサービスに行っている間が仕事が出来る時間なので、勤務時間と収入が限られます。
デイサービスを毎日利用できなければ、その間は認知症の方が一人になります。
デイサービスを利用していても、仕事から帰ってくるまでは認知症の方は一人で過ごさなければなりません。
一人で出歩いてしまい、警察から連絡が来たこともあります。
火の不始末があり、隣の方が気づいてくれました。急な出費ですが、全てIHに交換しました。
買い物に行ったのに、お金を持っていきませんでした。いつものスーパーから連絡が来ます。
そのような過去の出来事が、仕事中であっても、常に頭の片隅でうごめいています。
夕食時。
やっと家族が揃います。
夕食後、認知症の方が「ご飯はまだ?」と言い始めます。もう食べたことを伝えても「私はまだ食べていないよ」と全く話が進みません。
しまいには「ここはご飯も食べさせてくれないのか!」と怒り始めます。
やっと収まったと思ったら次は「そろそろ帰ります」と席を立ちました。
『ここが家ですよ』と伝えても「ここは私の家じゃない」「何で帰してくれないんだ」「私をここに閉じ込めてどうしようというのか」「あんたは人の家に勝手に上がり込んで、誰なんだ!」とまたしても怒りだしてしまいました。
建て直したとはいえ、間違いなく家はここだけです。なのに「ここは家じゃない」と繰り返し、興奮し、やがて疲れたのか座り込み、ウトウトし始めました。
また声を荒げたらどうしようと思いながら声を掛けると「もう夜ですね。じゃあ寝ますよ」とさっぱりした表情で言ったので、寝室に案内するとさっさと寝てしまいました。
余りにコロコロ変わる感情や表情に、どっと疲れが押し寄せます。
そしてまた、夜が始まります。
こういった不安や気持ちを抱えている介護者の方は、決して少なくないと思います。
これらの生活に終わりが見えず『いつまでこれが続くのか』という思いが、重くのしかかります。
先が見えない不安は、気持ちを暗くします。
そして、認知症介護で最も辛いことは『認知症の方の攻撃性は、一番良く見てくれている人に向きやすい』ということではないでしょうか。
一番身近な介護者が、一番攻撃されてしまい、最も疲れてしまいます。
攻撃されるということは、実は攻撃対象となっている方が『認知症の人にとって一番信頼できる相手』で『一番近くで見ていてくれている人』という何よりの証明です。ですが攻撃を受けている最中に、それを前向きにとらえることが出来る人が、果たしてどれだけいるでしょうか。
攻撃された辛さ、疑われた悲しさが、優しかった介護者を心理的にも孤独にしていきます。
こうなってしまうと、優しさからスタートして笑顔を目指すどころか、日々ストレスとどう向き合うのか、どう解消していくのかということを考える時間が多くなっていくと思います。
大切な親や配偶者を支えながらともに生活し、笑い合いたいと思って一緒に暮らすことを選んだのに、その思いと現在の状況の乖離が着実に大きくなっていきます。
家族の形と距離感
『認知症の方とともに暮らす』ということと『同じ家で生活をする』『家族で介護する』ということは、必ずしもイコールでは無いと思います。
・同じ家で生活することにこだわるあまり、介護者も介護される側もストレスを感じる暮らし
・住む場所こそ離れていても、適度な距離感を持って笑顔で関わり合える暮らし
この書き方には、少なからず私の思惑が含まれていると思います。ですが、大きく間違っているとも思いません。
そして、認知症の方本人にとっても、その方を大事に思う家族にとっても、どちらの選択がより良いのかということは、一目瞭然かと思います。
誤解しないでいただきたいのは、この記事は、すべての自宅介護を否定するものではありません。
家でともに生活をしていて、ストレスがない、笑顔があふれているのであれば、それはとても素晴らしいケアが提供できている証拠です。もちろんそのような状況であれば、施設に入るという選択肢を取る必要は全くありません。
ですが、今までと同じ生活をしているのに、違和感を覚えることやイライラすることが増えてきたのであれば、次のステップを考え始める時期なのかもしれません。
極端な例えや表現をしてしまったと思いますが、しかしこれらは、決して他人事ではありません。
いつ『介護者』という当事者になるかわかりませんし、いつ『介護される側』という当事者になるかもわかりません。
介護に関する事柄こそ、そして認知症が絡んだ介護であるならなおさら、早めに動くべきだと、私は身にしみて感じています。
ぐるっと周囲を見渡してみれば、包括支援センター、市区町村の窓口、居宅介護支援事業所のケアマネージャー、近隣施設の管理者など、不安や悩みを吐き出す先は、意外と多くあります。
そして上記の専門職は、家族が爆発し潰れてしまう前に、その思いを吐き出してくれることを待っています。
漠然とした不安や悩み、自分はこれだけ頑張っているのに、という思いを吐露するだけでも違うと思います。
認知症ケアは『笑顔を目指すケア』です。
誰かを笑顔にしようと思った時、大事なことは『自分が笑顔でいること』です。
自分が笑顔でない状態で、誰かを笑顔にすることは、非常に難しいと思います。
自分にとって大切な人の不安を取り除き、笑顔にしたいと思った時は、先ず何よりも、自分を大切にしてください。
そして、自分にとって大切な人と笑いあうために、ともに暮らしていくために、使える制度は遠慮なく、惜しみなく利用していただきたいと思います。
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